子供に対するしつけ・お仕置きの際に、<手を上げる>ことについては
単純な「いい」と「悪い」の二元論で語ることが、非常に難しい問題です。
「いや、だめだろ」
という意見を持った方・家庭が大半だとは思われますが・・・
実際には、特に男の子のいる家庭においては
「一度も手を上げたことがない」というケースは、非常に稀であると考えられます。
もちろん、「現実的な限度」といったものもありますが
その限度(子供に対してやっていい度合い)というのもまた
各家庭・人によって、感覚の違いに差があります。
特に「パパ・ママがどうされてきたか」というものが、非常に大きく影響するものであり
改めて<子育て>とは、「自分がされたこと」の繰り返しになるものと言えるのです。
目次
それは間違いなく「暴力」であるという前提
”基本的によくない”とは言え、体罰(折檻等様々な言い方はあります)に関しては
「その家庭の教育方針」があるものであり、他人がとやかく言うことではありません。
「事件性」がなければ、家庭内で済ませるべき問題です。
何より「受け取る側(される側、つまり子供)」によって、
その効果・影響というものは、異なるものになってくるものでもあります。
極端な例を挙げれば、
- 軽い(軽くはたく等)もので効果がある場合
- ボコボコにしても効果のない場合
- ちょっとのことで「トラウマ」になる場合
- 全く「なんの」意味のない場合
「手をあげる」という選択肢をとるということは、
子供が何らかの「悪いこと」をしたということです。
そして、その行為(発言等を)やめさせるため
<やってはダメなこと教える>ための選択肢の1つです。
しかしながら、間違いなくそれは「暴力」であり
<暴力で諭している>ということを忘れてはなりません。
また「いつから体罰は可能なのか」ということに関しては
もちろん、「基本的にはやらない方が・・・」と言えるものの
やはり「しつけを始めた後」でなければ、”やる意味”がありません。
体罰の目的(やってはいけないことを諭す)を理解できる
本来の意味(やってはいけないことをした)ということを
子供が認識しなければ、全く効果も意味もあるわけがないのです。
それ以前の体罰は、「ただ叩いているだけ」に過ぎません。
子供(赤ちゃん)は、「ただ意味もなく叩かれている」と認識されるはずです。

「受け取り方」も「匙加減」もその子次第
いざ親になったほとんどの方は、「まあ、やむ負えない時はあるよね」と思うはずです。
他の子に迷惑をかけていたり、道路に飛び出して車にひかれそうになった際には
<反射的にひっぱたく>ということは、度々目にするものです。
あくまで、「状況」と「度合い」が重要であり
”無意識のうちに加減している”ことが一般的と言えます。
できていれば、大丈夫です。
1歳未満の子供を「強めに叩く」ことに対しては、
それはさすがに・・・と、思う方は大半だと思います。
また、冒頭で挙げたように
「女の子よりも、男の子の方が圧倒的に体罰を受けている」
この現象は、ある意味で「性差別的」と言えるものですが
昔から、今尚当然のことにように受け入れられ続けています。
「暴力的な雷オヤジも、娘には甘い」
ということは、典型的な例でもあります。
あくまで「加減」が重要であり、それは「その親子次第」であり
「子供の特性」を見極めることが、何より重要なことなのです。
「結果オーライ」であれば、”加減”は問題はなく
問題になるのは、「受け取り(られ)方」を間違えた時になります。
「罰」ではなく「反省する機会」にしなければ意味がない
体罰とは1つのしつけの形であり、その”意味”が、何より重要なものになります。
「意味もなく叩く」は、誰がどう考えてもNGです。
そして、尚且つ
子供が「自分のため」と思えなければ、意味がないマイナスなものになります。
この人(お母さん・お父さん)はストレス解消のためにやってる・・・
ということを、子供は非常に敏感に感じます。
手をあげる前には、必ず「慎重な自問自答」が必要です。
そもそも、<折檻>の意味は
肉体に痛みを与えてこらしめること
というものであり、そもそも”罰”という意味合いが強く
言葉で諭す際よりも「しつけの意味」が薄くなります。
しつけとは「間違ったこと・失敗したこと」を、改めて・正しめることです。
必ず<反省>して「悪かったこと」を「繰り返さない」ために<考えさせる>ものです。
しかしながら「痛み」が伴う場合には、”うらみ”といったものが沸いてきがちです。
パパ・ママにも、経験があるはずです。
そもそも、その瞬間というのは・・・
ちくしょー!いてーな!となるに決まっています。
そして、そういった経験というのは「悪いことを隠蔽する癖」といったことが
染みついてしまう危険性が考えられます。
そうならないためにも、「お仕置き」が「罰」にならないためにも
必ず「考えさせる」という、段階・機会が必要です。
「叩いて終わり」ではなく、どうして叩かれたのか
何が悪かったのかを、自分の言葉で説明させてあげましょう。
ある意味で、「逃げ道」を作ってあげることであり
「言い訳」というよりも、「自分自身への問いかけ」という効果もあります。
「違う問題」があるケースも
時代の流れもあり、そもそも「子供に手をあげる」ことは
全体的に少なくなってきた、あまり見られないように思います。
しかしながら、
「どうしても言葉で諭すことができない」
「物理的に止めるしかない」
といった「きかん坊」は、いつの時代にも存在するものであり
心苦しくても、どうしても体罰を行わざるをえない場合もあります。
日常的に体罰を行うのは、やはりいいものとは言えず
そういった「子供にも問題があるかも?」という場合には
専門の機関に、相談してみることも必要かもしれません。

絶対に「自分の機嫌」でやるな!
これほど「正解」がないものものもありません。
様々なメディア・教育機関でも、語り尽くされているものであり
「各家庭でお子様に合ったしつけ内容」を施していくかありません。
それにしても、”正解か分からない”うえで進めていくことになります。
当然、間違いもあると思います。
しかし「愛情」があればいいのでは?とも考えられます。
ダメなのは、「感情」で怒ること
”しつけ”ではなく「罰(ペナルティー)」を課すことです。
誰しも感情はあり、「機嫌がいい時・悪い時」が存在します。
そして、期限が悪い時に子供が言うことを聞かなかったり
あまりにも駄々をこねていたりすることで、
「いつもより強い対応」をしてしまうこともあると思います。
しかし、子供は非常に敏感であり
「この人は機嫌が悪いからいつもより怒ってるんだな」
ということは、ばれてしまいます。
そこから、
「機嫌が悪い人を怒らせてはいけない」
ということを学ぶ機会であることは、確かなことでもありますが
一方で、「人の機嫌を異常に気にする」ような「萎縮」する癖がついてしまうこともあり
「異常に人の目を気にする人間」というのは、「神経症」になりやすい傾向があります。
「軽いトラウマ」とも考えられ、生涯にわたり「他人の評価」に縛られることになります。
もしくは「つきあってらんねえ」と、半ば自暴自棄な性格が見られることもあります。
「罰」でコントロールする弊害
そもそも、しつけに「罰」を導入することもやってはいけない典型的なものです。
幼い時期に「罰」によってコントロールされていた子というのは
- 失敗を恐れて挑戦しない
- 失敗して怒られるよりは「現状維持」
- やはり「一目」を異常に気にする
というような傾向が見られます。
そして、最もやかいな影響が
「怒られたくなくて嘘をつく」
ということが見られる子が非常に多いということです。
- 失敗を隠ぺいする
- (宿題等やっていなくても)やったと言い張る
- もしくは、そんなものはないと嘘をつく
嘘をつくことに慣れてしまうと、罪悪感というものは無くなります。
当然、そういった人間には”誠実さ”というものは無くなります。

本来の目的は「やってはいけないこと」を教えること
”しつけ”とは、
- 人が傷つくことをする
- 公共の場で騒ぐ
- 「くちゃくちゃ」音をたてて食べる
こういった、”やってはいけないこと”を教えるだけでいいはずです。
そして「教えてもダメ」な場合に、親として・人間としての真価が問われます。
- できなかったら、すぐに殴る
- 2回までは許す
どう対応するかで、子供の将来は変わってくるでしょう。
そして「子供の方向性」と、それによる「しつけの方向性」が決まってしまうのも
”おおよそ5歳まで”であり、「ひらがな」等といった知育学習と同時に
「心の教育」をしていくことも、非常に重要なことになります。